たかがWBC、されど益川敏英
ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士だが、「英語は話せない」と公言し受賞スピーチでも日本語で通したという。そもそもパスポートも持っていなかったというのだからある意味けったいなおっさんだ。
しかし英語を介さずしても自国語で世界に通ずる学業を全う出来ると証明したわけで、日本人のプライドを擽(くすぐ)らせて貰えた。もっとも氏の場合海外の英語論文は自ら目を通すと言うし、英語がまるで理解出来ない、と言う事でもなさそうだ。アメリカの指導の下日本復興と共に歩んできた世代でもあり、どこか譲れない矜恃があるに違いない。 (もっとも大学院進学時、あまりの英語・ドイツ語成績の低さに不合格寸前だったという話もあり本当にただ英語が苦手だという可能性も高いが)
私もたかが好みの体型を愛で奉るブログの管理者ではあるが、その「たかが体型 = ぽっちゃり」を愛する心に誇りを持っている。 言わば「益川教授 = 私」である。一緒にするなと思われる方も多かろうが気にせず一緒にさせて頂こう。自分が思う気持ち、こそが、人生で最も大切な要素だ。 たかが**、されど**。信心は大事なのだ。 例えば「ドラフト1位」。我が愛する弱小球団横浜ベイスターズのここ十年のドラフト1位(或いは希望・自由枠)投手陣は秦、土居、吉川、森、那須野、染田、高宮、山口、高崎、北、小林、田中と言ったところだが、まあものの見事に誰も彼も戦力になっていません事。道理で弱いわけである。この中で最も好成績と言える投手が冗談抜きで那須野巧(通算13勝27敗1セーブ防御率5.10)だという現実が「たかがドラフト1位」の「たかが」の部分を強調させている。しかしその那須野の裏金5億3千万が示すように彼らは多額の投資を受けており、使えないからと言って簡単には切り捨てられない立場にある事もまた事実。「されど」ドラフト1位なんである。それでも簡単に切り捨てられてしまった名前も何人か入っているが、要するにそれだけどうしようもないメンツだという証左だろう。 我々のぽちゃさんに対する想いの強さも一歩間違えると「たかが」で済まされてしまいかねない。それは面白くない展開だ。 WBC第一次代表候補に巨人の亀井が入っていて原監督に対するファンの期待の視線が一気に微妙な眼差しになったように、簡単に「されど」は「たかが」に変質する。 「WBC代表候補?プッ、亀井が入ってるじゃん。頭どうにかしたのかよ原www」 「多分亀井なら簡単に落選通告出せるから選んだんだよ。他球団の有力選手に落選は伝えにくいだろ?原も大概チキンだな」 こんな風に思われるのがオチである。いやまあ私が思ってるんですけどね。原JAPANには期待しているのでこういう下らない事でミソを付けて欲しくなかった気分である。あほちゃうか。 益川教授の英語嫌いも一歩間違えれば単なる偏屈なおっさんの一面に過ぎないのだが、ノーベル賞奪取という力業でオウンオピニオンを世間に認めさせた。更にこのおっさんは英語はおろかどうもノーベル賞そのものに対しても斜に構えた態度を取っている。やはり間違いなく本質的にはただの偏屈な男であるのだろう。しかしただの物理学者ではない立場にまで駆け上がっていったわけである。要するに困った人と偉人の間の壁は姉歯設計の欠陥住宅の如く、非常に薄いと言う事だ。 生か死か、勝つか負けるか。二元論は余り好きではないのだが(理由:頭が悪そうに見えるから)、やはり「されど」と「たかが」の問題にはこだわっていきたい。私が信じるぽちゃさんへの想いが世間的に「どうでもいい事」扱いされるのは良い気分ではない。 「世間がどう思おうとも自分自身がぽちゃさんの魅力を信じてさえいれば良いのではありませんか?そんなに世間の目が怖いのですか?この弱虫、軟弱者」 生意気言うなこの野郎である。全く世俗と切り離された概念がどういう運命をたどるかはオウム真理教を見ていても明らかだ。世間との融合を放棄した自己満足の世界は悪い意味でカルトの域を脱しない。正しく亀井WBC代表候補選出と同じである。どんな理由があるかは知らないが、他者に「駄目だこりゃ」と思われる事を進んで行う事など無いのだ。最終的に従うのは自分の意志だが、世間様を概念の埒外に置いてしまってはいけない。
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