何故か今更19年前の鈴木みのるVS.アポロ菅原を語ろう
若い頃、脳が割れるまでに悩み抜いても得られなかった結論をあっさり得てしまう。不思議な感覚である。私にとっての鈴木みのる対アポロ菅原がそうだ。アポロと言ってもオッパイポロリとは何の関係もないので注意して頂きたい。
1990年4月1日SWS神戸ワールド記念ホール大会、プロレス界を震撼させる事件が二つ起きた。一つは北尾光司によるジョン・テンタに対しての八百長野郎発言事件であり、もう一つが鈴木と菅原のシュート騒動である。今回のブログでは後者を語る。鈴木と菅原の試合にならない試合の顛末は謎が謎を呼び、その後も語り継がれてきた。ただの意味のわからない「しょっぱい試合」の一言で片付けるには濃ゆ過ぎた。しかし何があったかは今もはっきりとわかっていない。と、されている。当時現場にいた大矢剛功も「何があったのか今もよくわからない」と語っている。
当時の試合についてのHP(勝手にリンク)私も当時脳を振り絞り抜いて神戸のリングで何が起こったのか考えたが、情報が錯綜するだけで結局何も、全くわからなかった。 結構真剣に悩んだものである。私の中にあるプロレスとの整合性に折り合いを付け、この難問に挑んだ。北尾の発言と言い、プロレスの真実に触れていそうな不吉な展開に嫌な汗を掻きながら。 でもちっとも結局わからなかった。 そして謎のまま、事件は私の中で風子、もとい、風化していった。 だがこの間なんとなくネットサーフしていたらこの試合に関する話題を見かけたので、改めてあの試合は何だったのだろうと考えてみたらなんかあっさり結論が出てしまったのである。 「U系を快く思っていない勢力の尖兵としてガチ能力の高い菅原が試合中にシュートを仕掛けたが、鈴木はガチンコを嫌いその展開から逃げ、菅原が白けて(或いは呆れて)試合放棄した」 本当にあっさり完結してしまったが、プロレスにロマンを求め、ある種の幻想に取り憑かれていた当時の私では思いも寄らぬ結論だ。プヲタ熱も程よく冷め、冷静に考えられるようになったからそんな答えが得られたのだろう。 もちろん私の頭の中での勝手な結論であり、本当の本当にそうなのか、真実はわからない。だがそんな間違った推測だとも思わない。 試合後のなぜか勝ち誇ったような菅原の態度、悔しそうに号泣する鈴木とそんな鈴木を藤原とゴッチが激怒したエピソードなど、船木の著書による証言からしても大きく間違っていると言う事はないだろう。若手たちが藤原組を飛び出し格闘技風プロレスと言うUスタイルを捨て、パンクラスなる格闘技団体を旗揚げしたのもこの出来事と無関係ではあるまい。女の子に脂肪が付くとそれと関係して乳も肥大化するが同じ事である。一部例外はあるが。 当時はUスタイルについていけない菅原がやけくそになって試合を壊したとか、理想のプロレスをやれない鈴木が従来のレスラーである格下の菅原に付き合わなかったとか、鈴木が仕掛けたガチンコに菅原が対応出来なかったとかいろいろな説があったものだ(Wikipediaだと「UWFスタイルにこだわる鈴木と、それに付き合おうとしない菅原がまったくかみ合わず、苛立った鈴木が明らかにプロレスの範疇を逸脱した攻撃を繰り出し、不可解な試合となった」となっている)。が、鈴木が突然眼前に突き出された真剣勝負に困惑し、何も出来ないまま組み合わず逃げ続けた(しかしリングから降りる決断も出来ず膠着状態が続いた)と考える方が自然だ。シュートを仕掛けたのが菅原の側であった事は両者のその後のインタビューからも見て取れる、菅原は鈴木の指を折りに来たという。 鈴木は完全実力の世界(と言うギミック)であるU系の尖鋭と周囲に思われ、本人もそう自負していたに違いない。それどころか「本当のガチでも俺はいけるはずだ」と思っていた節もある。それが菅原という伏兵に本当に本当の意味でのシュートを仕掛けられた時、その状況に、鈴木の心は対応出来ず、焦燥感だけが募り、なにがなんだかわからないうちに試合はノーコンテストとなり、後には自分を見下す菅原の視線だけが残った。 鈴木の涙は菅原に向けられたものだけではなく何よりも自分自身に向けられた感情の露呈だったのだろう。だとするとパンクラス旗揚げ後、格闘技の世界に身を投じ、勝っても負けても戦い続け、そうしてプロレスのリングに戻ってきたその後の鈴木の軌跡には逆に人生の重みを感じる。鈴木はその後、圧倒的支持を得て2006年のプロレス大賞MVPに輝く名レスラーとなる。 対する菅原はレスラーとしては不遇の部類に入る。永遠の前座レスラー、クラシックで不器用なファイトスタイル、プロレス入りの遅れたボディビルダー上がりと言う評価が一般的だった。顔は格好いいのだが、如何せん地味だった。しかも入団団体は国際プロレスである。芸能事務所で言うとテアトル・エコーみたいなもので、その筋では有名で評価を受けていても一般的には「どこそこ?バーニングとか吉本興業とかじゃないの?」とか言われそうなところだ。しかもその後全日本プロレスをリストラでクビになっている。当時最先鋭の格闘技団体だと思われていたU系期待のトップレスラーたちとは相容れぬ存在と言えた。 だが今でこそ私たちも知っているが、Uは格闘技風芝居であり格闘技ではない。鈴木の所属するプロフェッショナル・レスリング藤原組もまだプロレスの範疇を超えた団体ではなかった。平たく言うと八百長である。しれっとした顔をして格闘家面をするU系レスラーに対して「お前たちも俺たちと同じプロレスラーだろうが」と思い、しかし口に出しては言えない憤りが、従来のレスラーたちの中で膨れ上がっていた事は想像に難くない。今でこそプロレスが格闘技でない事は周知の事実となっているが当時はまだ違った。プロレスを格闘技と信じている、または信じようとしているファンにプロレスは支えられていた。「Uのやっている事は俺たちと同じプロレスで、格闘技なんかじゃない」なんて本当の事を口にする事はできなかった。それをわかっていて、昔の新日本やUWFは「うちは本物の格闘技団体」だとはったりを利かせ、「最強」を謳い文句にした。まだ世の中にはMMAはなく、バーリ・トゥードなる言葉すらなかった。シューティング黎明期の話である。 若き日の菅原は国体を制したアマチュアのトップレスラーだった。大学に進学しなかった理由も何かあったのかも知れない。当時まだ若く、格闘的実力者の顔をして粋がる生意気な若造にしか見えぬ鈴木に対し、秘めた自信を持つ日陰者である菅原の体内で、何らかのスイッチが押されてしまった理由はよくわかる。同級生の倍の体重を持つぽっちゃり中学生を見ると我々の心の中でも変なスイッチが押されてしまう。人間は本能には逆らえない生物なのだから。こうしてデビュー当時の北尾光司の他たけしプロレス軍団出身の邪道・外道そしてスペル・デルフィンのコーチを務めたという以外特に目立つ経歴の無かった菅原はプロレスの歴史に名を留める存在となった。 高校時代アマレスで鳴らしたという意外に得な共通項を持たぬ二人の人生が、1990年のある日、一瞬だけ交わり、離れ、しかしその後の人生に大きな影響を与えた。 私の一方的な結論である。 しかしそんなに大きく間違っている事もないだろう。人は突然、答えを得る瞬間がある。男と女の出会いも同じだ。私もより素晴らしい未来に向けて、確かなぽっちゃりライフを確立させたいものだ。 そんなわけで今回の話題は19年前のカビの生えたプロレスという衰退し切ったジャンルのお話であった。全く女の子受けしそうにない男むさいブログ記事である。反省したい。でも後悔しない。私が書きたいと思った事を書く。それが私のブログの約束事なのであると青島幸男が決めたのだ。そこのところ、4649。
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