寒いが生きる。我々は。
ここ数日突然寒くなってきた。何と言う事だ、つい数日前まで扇風機が部屋の中で回っていたというのに、過ごし易い季節は終わりを告げてすぐに冬になってしまう。
どうにも私は冬が苦手である。寒いではないか。朝、布団から起きられないではないか。スクーターのセルがかからなくて会社に出掛けられなくて焦るではないか。昔だったら「ああ、もうすぐ世界最強タッグリーグ戦の季節だ、楽しみだなあ」とも思えたが残念ながら私は武藤全日本に何の関心も興味もない。申し訳ないけど全然ないのだから仕方がない。
よって、冬の楽しみ、良さが今一つわからない状況である。 勿論寒い季節、ほかほかの暖かいなべ物を食べると美味しい。私もそれが冬の喜びの一つだと思ってきた。だがしかし冷静に考えてみよう、なべ物は別に冬でなくても美味しくはなかろうか? ぽちゃさんだって同じだ。冬、ぽちゃさんと抱き合って重なり合うぬくもりは至福である。matigainail. おっと変換キーを押し忘れていた。間違いない。だが、夏だってぽちゃさんと抱き合っていたい私である。冬が優れた季節だからぽちゃさんと抱き合いたくなるのか?否、ぽちゃさんと抱き合う喜びに季節は関係ない。 クライマックスシリーズと横浜ベイスターズぐらい関係ない。的場文男と東京ダービー、明仁親王と肇子女王、物理的空間と幾何学的空間、松原誠とダイヤモンドグラブ賞、UtadaとBillboard、山中伸弥とノーベル賞、ジミー鈴木と平穏なネットライフ、ジャムおじさんとバタコさんの血縁関係、週刊少年サンデーと週刊漫画サンデー、日産リーフとガソリン、AKB48とキモオタ、九州新幹線と宮崎県、テッド・デビアスとNWA世界王座、「頑張ろう」と「バンガロー」。関係したくともしないものはしない(勿論「オリンピックと政治」のように無関係を装っていて実はズブズブに関係があるパターンも存在する)。 確かに冬ぽちゃさんと抱き合うと暖かくて幸せだが、真夏にクーラーの効いた部屋でぽちゃさんと抱き合っても十分幸せである。つまり季節は余り幸福と関わりないと断ぜられる。
冬を愛する人は 心広き人
懐かしの名曲にあるフレーズだがどうだろう?心が広いと言うよりネジが一、二本緩んでいるのではなかろうか。 例えば真冬の羅臼町役場駐車場で四季の歌の四番を延々と繰り返し歌っている人がいたら「変な人がいる」と道警に通報が行くはずだ。「冬の良さ」など所詮はその程度に過ぎない。 寒くて冷たい冬が好きだなんて、暖かいパンとスープに囲まれ暖房設備の完備した邸宅に住む典型的なブルジョアジーの発想である。プロレタリアート舐めるなと言いたい。冬は人類に知恵を与え工夫を促し発達に大きな役割を果たしたが、あくまでも結果論であり「寒くて辛い」と言う本質は変わらない。何でもないものを必要以上に有り難がって褒め称える事はないのだ。馬鹿を崇拝しても意味がない事は歴史が証明している。半島の北に位置しているどこかの国民なら皆さんわかっているはずだ。 寒くても暑くてもぽちゃさんを愛する心が同じならば、人は幸せに生きていける。 そう思えば冬の寒さなんて愛の前では無力だ、へっちゃらだ、どうって事ないと断言してみたいところだが、やはり現実問題として寒いのは嫌だ。
独りだけでは嫌だ お前だけでも無理だ 愛と勇気は言葉 信じられれば力
どこかにそこにいるだけで体が温かくなれるオーバースキルを持ったオーバーマンがいてくれないだろうか。そう思えばぽちゃさんはやっぱり素晴らしい。オーバーマンは所詮空想上の産物だがぽちゃさんは実在して、それでいて抱くと暖かい。 冬の糞野郎の寒さからは逃れられないけれど、私たちにはぽちゃさんがいる。そう思って諦めるしかない。 今年もまた、秋と言う冬への助走期間が始まった。ああ嫌だ、しかし嘆いてはいられない。 季節に関わりなくいつだって私はぽちゃさんが好きだ。しかし寒い季節のぽちゃさんは確かにやはり、格別だ。 人は弱い。私はぽちゃさんのぬくもりを欲している。
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