錯綜的情報社会に生きる
ゴルフの石川遼とか横峰さくらとか、何で騒がれているのかわからない連中がいる。若い以外の特に何の特徴もないただのゴルファーが集中的に報道の中心に据えられ、例えば「遼クン、予選落ち」は報じられるが、その大会で誰が優勝したか等は一切触れられずに終わるのだ。そんな「情報」に何の意味があるのだろうか。
彼らを報道のメインにする事で何らかのメリットがマスコミにはあるのだろう。それは彼らの背後にあるスポンサーの問題かも知れないし、広告代理店の戦略かも知れない。あまり公にされないボクシングの亀田のバックのように、不必要なまでに力を持った団体が付いているのかも知れない。特定の利権に集る組織が、日本中に存在しているのだ。 ゴルフを例に例えたが、今回はゴルフの話ではない(興味ないし)。インターネットの意義を話したい。 基本的にマス・コミュニケーションは情報を操作する存在だ。誰が求めているかもわからない情報を恣意的に操作し、誰かが得をする構造を形作る。私たち受け手の都合は関係ない。マスコミは古今東西権力者の下僕に過ぎない。朝日だろうが読売だろうが、CNNだろうがおんなじだ。
インターネット普及の功績を考えてみよう。 最大のメリットは情報を自ら選別するという意識付けがネットユーザーに求められている事ではなかろうか。だから我々は他者の意志によって選定された情報を無視し、自ら欲する情報を掴む権利を得、権利のみならず実行する事が出来る。勿論それには社会的、公的な情報を得る機会の減少や損失というリスクが覆い被さるわけだが、ここで肝心な事は「私たちは自ら追い求める情報を得る手段を手に入れた」という事実にある。 世界が広がったのだ。 小さな世界では誰かの都合で垂れ流された下らない情報を重視せざるを得ない。人間は好奇心の塊だから、世界が狭ければがらくたのような情報でも追い集めるものなのだ。だからネット世界の拡大により個々の必要とする情報を構築し得る社会が到来した21世紀の現代は、情報が権力者から切り離された記念すべき時代と言える。 然るにぽちゃさんの情報はまだまだ全然足りない。 個人的にそう考える次第である。これだけ情報が氾濫する世の中になっても、然程ぽちゃさんに関する情報が多くないと感じる私の感性は間違っているのだろうか。 否、間違っていない。 特に和物ぽちゃさんの情報が少ない。町を歩けばそこらかしこにぽちゃさんが存在するのに、ネット上では数多の女性たちの陰に隠れ殆ど姿を現さぬ存在である。ぽちゃさんが好きな人類はもっと多いはずだ。何の証拠もないが確信がある。ニーズはあるのにアイテムが少ない。もっと多くのぽっちゃり情報が溢れ出るくらいでなければ、せっかく訪れたネット社会も大した存在価値を持たない。 ネットは個の意志を外界と直接繋ぐ事が出来るという今までの世界のは存在しなかった希有なる道具である。バーチャルリアリティというと「嘘っぱちの世界」なる言葉の意味が混在してしまいイメージは悪いが、インターフェイスとしてはこの上なく優秀だ。つまり我々は情報の手段、環境を手に入れた事になる。 それなのに、ああそれなのに。どうにも貧弱なネットにおけるぽっちゃり情報の勢力の弱さにはうんざりしてしまう。 特に日本人ぽちゃさんというカテゴリにおいては動画が弱い。殆ど見ない。 FAT-TUBE アメ公なんかは着々とBBWという一大ジャンルを形成し、このFAT-TUBEなる優良サイトを見てもおわかりのようにネットを有効活用しようと頑張っているのに、このような動画サイトなどは日本では殆ど見られない。全くないわけではないが少ない。そして多くはつまらないアフィリエイトや広告のリンクで覆い尽くされているのだ。全く腹立たしい現実である。 飛行機で行けばいいのにわざわざ海路で外国に旅立つようなもどかしさを感じる。グアムですら船だと横浜から3日か4日かかる。下関-釜山間ぐらいの距離ならともかく今時船で海外に行けるかという話である。私の知っている日本人とはこんなに情けない民族だったのだろうか。もう少し大量のぽちゃ動画像がネット世界に充満する未来を願う次第である。 石川遼とか横峰さくらとかオグシオだとか斉藤の祐ちゃんだとか、そんな情報は要らないんだよ。 そうは思わないかBaby。私たちには私たちの求める「情報」がある。 せっかく切り拓かれたネットというフロンティア、ぽっちゃりした君と、君を求める私との、大切な出会いの手段として有効活用するべきだと思うのだ。情報とは夢を叶えるための道具に過ぎない。 作り物ではない本当の大切な「情報」。 私たちの手で、紡ぎ上げていきたいと願う。 俺は涙を流さない、ダダッダー!なあ、みんな。
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