学舎(まなびや)の記憶
卒業以来はじめて母校を訪れた。ついこの前まで学生だったような気がするが、数えてみたら干支が一巡する以上の年月が経っているのである。かつての下宿から校舎までの風景は、懐かしくもあり新しくもあった。
私には過去を美化する癖はない。それでも母校に訪れようとこれまで思った事がなかったのは、思い出を大切な形のまま心の中に留めて置きたかったからに違いない。それに、卒業後多くの建物が追加され、私の知っている風景は消えてしまっていると何人かに聞かされていた。せっかく訪れて姿形が変わっていたら興醒めしてしまうではないか。
それでも思いの外キャンパスは以前の風情を保持していた。昔頃好きだったぽちゃさんを久々に見たらちょっと化粧がケバくなっている程度で笑顔のかわいらしさが変わりなければ安心するだろう。 確かに私がかつてそこにいたままの空気が流れていた。これは嬉しい事だ。 だがしかし、多くの人が口にする「学生時代に戻ったような感覚」は浮かばなかった。余りに時間が経ち過ぎているし、何より今の私は一介のOBであるだけでそこに居場所がない。変わらぬ空間はその実骸(むくろ)に過ぎず、私は骸を眺めて思い出を胸に秘める通り人でしかない。だから思い出を確認するのは好きではないのだ。流れた時間という現実を直視せねばならぬから。 と言っても私は「この学校の人間だ」という自負があるから遠慮はない。かつてグラウンドがあったキャンパスから休憩所、学食、図書館、更には通りの向かいにある懐かしの食堂まで臆せず練り歩いた。久し振りに山盛りの白米が付いてくる回鍋肉(ホイコーロー)定食を頼みたかったが昼休みに着き準備中の札が掛かっていた。 ここの回鍋肉は他の中華料理店で食べる回鍋肉と違ってタレが濃くややもすると少しくどい。しかしこの店以外ではそんなに口にした事のない独特の風味があって、凄く残念だった。しかし食べてみたら今の私の好みと違って美味しく感じないかも知れない。だから食べれずに正解だったかも知れない。 かつて私の住んでいた昭和30年代に建てられたとおぼしきボロ屋は建物はそのままだったが改装されて部外者が立ち入り出来ない形になっていた。多分大家の息子か娘の部屋になっているのだろう。あの頃は小学生だったが今ではもう社会人なはずだ。 あの頃の私は今と同じぐらい臆病で、しかし今よりもう少し物わかりの良い青年だった。今の私はもっと擦れている。自分の主張を強く訴えるようになった。自分程度の、大した才のない人間は黙っているだけでは社会に搾取されるだけだと知ったからだ。だから少し拗くれたジジイになった。反省しなければならないがさりとて気張って態度を改めるつもりもない。素直にハイと答える人間を利用する者もいる。私はもはや私の思い知らぬ所で利用されるつもりはない。自分を守る為に捨てたものもあるのだ。 ああ、思い出はやはり自分の胸の内に取っておくものだ。 ここは譲れない。どんなに近しい人にも迂闊にはさらけ出す事の出来ない、私の中の大事な宝物なのだ。そして胸の中から取り出すと、とたんにそれは色褪せて嘘臭い代物となってしまう。 それでもたまには自分の中にある思い出を、ちょっとだけ共有したくなる人も現れる。今までも何人かいた。この人には自分の思い出を伝えたいと思える大切な君が、これからも現れるだろう。 同じ時を過ごし、心の中に仕舞って置いた思い出をお互いちょっとずつ伝えたくなるような大切な人がいたらとても幸せだと思う。 私の寝物語に付き合ってくれる子が現れたら、私も君の物語を聞こう。 分かち合う一時を共に過ごせる君がいたら、何気ない思い出の言葉を伝えたい。 その瞬間は、即ち、幸福の時であるに違いない。
<唐突ですが、富士山撮り画像>
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