本と私
前回は趣味である旅行の話をしたが、今回は読書の話である。読書。若き日の私はたくさん本を読んだものだ、まあ、漫画の方がもっとたくさん読んでいたけど。
しかしここの所全く読まなくなってしまっているのである。インターネットがあるから?それも確かに理由の一つだが、大きな理由は私の我が侭にある。赤の他人の文章を読んで素直に「へー、そうなんだ」と感動する心を失ってしまったからなのだ。どうです、ワガママな理由でしょう?しかし実際そうなのだ。本というものは当たり前の話だが著者の意見が収録されている。中年になるにつれ他人に一々突っかかる性質を備えてしまった私の場合、読みながら著者に対して「何言ってんだコイツ?」とか思うようなオヤジになってしまったのである。
他人の言う事を素直に聞き入れない症状は反抗期の中学生なんか似よくありがちな態度だが、私は立派な三十路のおっさんである。以前こんな話を聞いた事がある。「中年になってからグレた男が一番手に負えない」と。 ぶっちゃけ私もそう思う。大体の場合中学高校でグレた奴というのは立派な大人に育つものである。勿論例外もある。手に負えないやんちゃ坊主が大人になったら極悪非道のクズ野郎になってしまったなんてケースもざらにある。しかしながら反抗期にある程度自我を確立させると、そういう子供は大概青年期を境に精神的に大人になるものだ。逆に中高の段階で優等生だったのに、大人になってから世間・世界に絶望して捻くれたりしてしまうともはやどうしようもなく困ったオヤジになるわけである。これは間違いのない事実と言える。 そんなわけで私も社会の荒波に晒された結果、やや癖のある困った中年、英語で言うとDifficult Personとして人格遷移してしまった事は否めない。茂造じいさんのように。 しかし幸いな事に私は今も昔もぽちゃさんを愛するピュアハートの持ち主である。それ故にギリギリの所で一般人として生きていられるのだろうと推測される。有り難うぽちゃさん、私は君たちに救われた。 I'm saved by you. Thank you! さてそんなジミー鈴木レベルの英語教室はいいとして、話を戻すと実際問題としてどうにも読書に夢中になる心を失ってしまっている自分に気付くわけだ。だって先日(今も)話題の盗作選集本「最後のパレード」作者の中村克なんて、ブログを読んでもわかる通り滅茶苦茶な人物じゃないですか(まあ私も勝手に他人の画像使って糾弾された過去を持つ者なので余り偉そうな事は言えないのですがね、ハハハ)。違う話題を持ち出したり自殺するしないの大騒ぎしたり、物凄く危険人物なわけである。敢えて言おう、キの字であると。でもその同じ人が、盗作がバレていない時点では感動のベストセラー作品の著者だったのだ。 子供の頃は「文筆家」というと凄い天才的な大人がなるものだと思っていたが、現実問題ちょっと文章が旨いだけのフツーの方々、そして時にはフツーでない方々に過ぎないと悟ってしまったわけなのだ。 そんなわけで斜めからしか本を読めないという、困った性癖を身につけてしまった私なのだった。かつてはあんなに純粋に「本」を楽しんで読んでいたのに...今ではツッコミどころを粗探ししながらページをめくっている自分に気付く現実だ。何だか凄く勿体ない気分で一杯である。 もう既にぽっちゃり妻がいるという理由で青木りんの求婚を断るお父さんぐらい勿体ない。振るのなら私に分けろという話なのだ。 こうなると徹底的に主観を廃したノンフィクションや、物理本のように私の知識レベルでは突っ込みようがない冊子を読むぐらいしか方策がなくなる。或いは本当の本当にお気に入りの作者の本だけが、残る。 飛行機事故機体のボイスレコーダーを生々しく列記し、作者は補足を入れるだけの「墜落!の瞬間―ボイスレコーダーが語る真実 」などは数少ない最近の私のお気に入りである(最近といっても10年以上前から持っている本だが)。 また以前このブログでも取り上げた事のあるブライアン・グリーン著「エレガントな宇宙」も突っ込めない。 例えばどんなに稚拙な内容だったとしても、逆に高尚な内容だったとしても、君はビルマ語で書かれた文章を読んで感想が言えるか?スタニスワフ・レムのSF傑作と呼ばれている「砂漠の惑星」の原文を読めるか?ポーランド語だぞ。 かように純日本人であるが故に私の脳ではビルマ語やポーランド語は読めないわけだが、エレガントな宇宙も何が書いているのか非常に理解が難しい。そもそも相対性理論もろくすっぽわかっていないのに超ひも理論とか書かれている書籍を読むなどと、無理がある気がしないでもない。 無理なく、理解出来る、或いは楽しめるレベルの本を読んで素直に面白いとか楽しいと言える読書人生に戻したい。 趣味を失った中年男は悲惨なのだ。 もう少しエレガントで、余裕のある人生を歩みたいものだ。
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