慇懃無礼の相互理解
「どうしてあなたは私を徹底的に無視するのですか」「は?」 そんな会話があったのである。突然、会社のパートのおばちゃんにそう言われたのだ。
意味不明である。話を聞くとどうやら「自分に対してだけあなたは無視をする。どうしてか説を聞きたい」との事だった。無視と言っても私は彼女と部署も違うし仕事も共有していない。すれ違いの挨拶をするぐらいだ。そうするとその挨拶自体に問題があるという事か?ぶっちゃけ何も心当たりがない。 それに私は自分で言うのもなんだが会社で挨拶は欠かさないしむしろ率先している部類である。会社の内申書でも「挨拶を欠かさず朗らかだが職務におけるケアレスミスが多いのが難点」と書かれているぐらいだ。
ケアレスミス云々はともかく、そう言う評価である事は会社のキャビネにある評価ファイルをこっそり盗み見した経験から間違いない。 そして今は特に口も利きたくない人が職場にいるわけでもない(ちょっと前まではいた。その人に対しては確かにガン無視してた)。普通に皆さんに接しているつもりだ。しかし「私だけ無視してる」と訴えられたわけである。 ちなみにその女性は仕事の関係で2年前ぐらいに注意をした記憶はあるがその後は何の関係もなく、顔はわかるが名前も覚えていないぐらいの関係である。 言い訳させて貰うと、私は社内ではそこそこ明るく誰にでも挨拶をしている方だが、ぶっちゃけ我が社は500人以上勤めている人がいる。別に全員にヘコヘコ愛想を振りまいて過ごしているわけではないのだ。会釈や挨拶程度のお付き合いの人が殆どだ。そんな眼中にないお方のうちの一人からいきなり挑発的な発言を受けたわけである。晴天の霹靂とまでは行かないが、結構驚いた次第である。 ここで普段の私ならここで「何言っていやがるんだコイツ。糞して寝てろバーカ」と心の中で毒づくのみならずひょっとしたら口に出してしまうところだが今回はちょっと違った。何故かというとつい数週間前にも全く別の出入りの女性業者に「どうして私にだけに冷たい応対なんですか」と言われていたからだ(ちなみにこの女性はぽちゃさんでむしろ私は好意を持っていたぐらいなので誤解である事を説明しその場で仲直りした)。 この短期間、複数人に同じような事を言われてしまったという事は、私の態度が実際に、特定の人々に冷たさを感じさせているという証左だろう。 思い当たるのは、私はすぐ馴れ馴れしい口調になる欠点を自覚しているので、気分的に弛んでいるなと感じた時などは務めて真面目な口調で簡潔に用件を伝えるよう心掛けている事である。 挨拶も若干事務的になるのだろうか。それが他人の目には余所余所しい態度に映るのだろうか。 個人的にはけじめのある対応は好ましいものだと思っているのだが、慇懃無礼な印象で取られてしまっているのかも知れない。 「毅然とした対応」と「冷たい対応」は紙一重で、要するに無意識のうちに他者を選別し応対を変えると嫌がられるという事なのだろうか。いやはや人付き合いとは面倒臭いものだ。コミュニケーションとは実に難しいものである。 砕けた口調でないと仲良しになった気分になれない人もいれば、礼儀ある受け答えを通さねば心を許さない人もいる。人間は個々多様な意思、感性を持っていて、共通認識の摺り合わせをしなければ共に歩むも困難な生命体なのだ。 だからこそ、人類にはぽちゃさんを愛する心という共通の言語、認識が必要なのではなかろうか。 For example、例えば吉本新喜劇では、座長がボケたら団員は皆大袈裟にコケる事になっている。お約束というやつだ。これは舞台喜劇を円満に運ぶための知恵である。ギャグのおもしろさ、おもしろくなさでいちいちコケるかどうかを決めるのは面倒臭い。台本読み間違えでコケるタイミングを間違える団員がいるかも知れない。そうしたらどっ白けである。しかし「座長がボケたら何が何でも全員コケる」「座長以外のボケの時はコケない」とはじめから決めておけば問題は発生しない。そうすればスムーズに舞台が流れる塩梅だ。尚、蛇足ながら、この法則にはチャーリー浜などの例外適用芸人も存在する。この辺が人の世の深いところだ。 要するに何が言いたいのかというと人と人が分かり合うためには共通の認識事項が必要だと説いているわけであるのだよ、私は! 共通認識。相互理解。意志の分かち合い。そしてそのための方策。 世の中では宗教や信仰、思想、主義といったものの考え方が人と人を繋げる紐の役割を果たしている。危なっかしい中世のキリスト教原理主義も、あからさまにインチキな新興宗教の教祖様への信者の願いも、マルクス主義も、プロレタリア革命も、根本には人と人との幸福を求め合う心にある。例えばゲルマン民族の優位性を訴えてドイツ人をひとまとめに結集させたナチスのやり方なんてまさにそうだ。ついでに共通の「敵」をでっち上げて愛国精神に火をつけてあげれば頭の悪い一般大衆なんてイチコロだ。喜んでユダヤ人の隠れ家も密告してくれるだろう。 しかし私はもう少し恒久的平和的に、特定の人だけでなく、選ばれたり限られたりではない、全ての人々に願いを捧げたく考える次第である。 そこでぽっちゃり女体信仰だ。 人間の信仰の源は母性にある。これは間違いない。そして母性とは女性の豊満さを敬う気持ちであり、肉体的精神的に愛するべき存在意志である。ブラボー!でっぷりと肥えた女性の心を鷲掴みにし、愛し合う。どうだろう、誰も傷付かない。全ての人々に幸福をもたらす共通言語なのだ。エスペラントも真っ青である。 それ故にこれからもぽちゃさんへの愛を絶やさず普及活動を頑張っていきたいと思う次第である。 え?会社のパートのおばちゃんとのコミュニケーションはどうなるのかって?それとぽちゃさんへの想いと何の関係があるのか、って? 知らねえよあんなわけわかんねえババア。勝手にいじけてろ。 おっと、つい本音が文章に滲み出てしまった。反省である。勿論全ての人々と幸福を追求するのが私の願いであり未来である。世界中のぽちゃさんたちも喜ぶだろう。 ぽちゃさんを通じてあのバ...いや違ったおばちゃんとも仲良くなれる日がいつか来れば幸いだ。来なくてもいいけど。 ぽちゃさんを通じた世界平和に貢献したい。そうすればあのおばちゃんや前の会社の糞上司や千原英之進(クズ)とわかり合える日も来るだろう。いややっぱり来なくてもいいかな。 愛は地球を救うのだ。私はそう信じたい。
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