すてきな読書
先日、と言うか昨日、読売新聞を読んでいたら未だに「携帯を捨てて本を読もう」などと言う大学教授中心のお笑い三者対談が堂々と掲載されていて驚愕したのである。
私も本の良さは知っているつもりだが、言葉の世界に溺れれば頭でっかちの弱い人間が生まれがちになると言うのは本もネットも全く同じ事だと思っている。。活字だろうがモニタに表示されている字だろうが違いはない。問題の主題をシステムにこだわるからこのような時代遅れの珍説が大手を振って罷り通る結果になる。
簡単に言えば本に溺れる者はネットに溺れる者と同等で、本で有効に学ぶ術を持つ者はネットで有効に学ぶ術を待つ。 情報に対する取捨選択の精度を高める事が学問の本質であり、方法論はそれ以上の意味を持たない。本を持ち上げるのに携帯を叩くアプローチは根本的に意味がないのだ。 私もぽちゃさんの愛らしさを訴える際にガリガリの骨女を引き合いに出す方策はなるべく取らないようにしている。ただ世の中には丸いより細い方が良いと考える頭の悪い種族が多数生息しているのでどうしても比較の上で扱わなければならない事もあるが、基本的にガリは「どうでもいい」存在にある事は間違いない。つまり、無理に取り上げる必然性はないと言う事だ。 女体の麗しさを考える際にいちいち男の裸を思い浮かべる人間がいるか?いるかもしれないがそれは変態だ。あくまでマイノリティはマイノリティである。ガンダムよりドラグナーが大好きな奇特者もこの広い世の中には存在するかもしれないが、例外は例の埒外にあるから例外と呼ばれるわけだと念頭に置かねばなるまい。 「ガラパゴス携帯が未だ優勢も、スマートフォンが市場を席巻している」 そんな展開に世の中動いている時に、まだ「携帯を捨ててもっと有意義な読書に親しもう」とか間抜けな良識人とやらの学者さんたちが集まって対談しているわけである。MDやCDよりアナログレコードが好きなマニアはたくさんいるし悪い趣味だとも思わないが、CDそのものを否定している人がいたらもはや殆ど社会不適合者である。ましてやCDすら廃れ始めているこの二十一世紀に。 何かを訴える時は、シンプルにストレートに言葉を発せねばなるまい。 ぽちゃさんは素晴らしい、その肉塊が私を虜にさせる。私自身も反省してもっとストレートに肉の素敵さを訴えるブログにしていかねばならない。ぽちゃさんのかわいさを証明するのは理屈でも相対比較でもない。ここを大いに理解していかねばならないだろう。 "他人の自我にたえず耳を貸さねばならぬこと――それこそまさに読書ということなのだ" http://office.soka.ac.jp/library/sbw2008/bungo.htmより勝手に引用 ネット上で拾ったニーチェの言葉である。いい発言だ。しかし別に読書に限った話ではない。上のリンク内を読んでみると、どうも「読書」と言う行為に必要以上の意味を求めている方々が多すぎる気がする。まあ本ぐらいしか娯楽がなかった時代のモンキーにとってはそうなのだろう。 本を読み耽る青春とぽっちゃりした彼女を見付けて乳繰り合う人生とどちらが幸せなのかというと圧倒的に後者である。私はどちらかというと前者の若者だったのでよりそう思う。それでもぽちゃさんより読書の方が大事で絵大切な者だと言い張るなら言えばよい。 君の自由だ。そしてそんな君を薄ら笑いしながら見下すのも私の自由である。 本には本の良さがあり携帯には携帯の良さがある。「良さ」は「世界」と置き換えてもらっても結構だ。大切なのはシステムの差異ではない。 たまにプヲタなんかでも「頭が良くないとプロレスは楽しめない」とか本気で抜かす方々がいるが、無意味な優越感である。人間特有の悪癖だ。 「私は本が好きだ、君も本を読まないか?」 これだけで伝わる事を、携帯といった他のジャンルを貶めるような文体でしか表現出来ない読書人とやらには、その小さなこだわりに苦笑するしかない。
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