君は東電を許すか
「まさかこんな事になるとは思ってもしなかった。東京電力を信頼していた。だが原発が来て町も潤い、生活の糧を与えてくれたのは事実だ。私は原発を許しますよ」
避難生活を強いられる双葉郡の八十歳の老人の言葉である。ホロリとさせられる。罪を憎んで人を憎まずだ。美しい日本人の姿がそこにはある。しかしこの老人が元国家公務員で退職後東電職員として十年働いていた天下りと知れば、「あんた関係者っつーか当事者じゃねーか。さも他人事みたいに言ってんじゃねーよ爺さん、いやこのジジイ!」と嫌味の一言でもかましたくなってしまう次第である。
原発事故で避難生活の80代男性「私は東電を許します」 ちなみにこの爺さんは妻も娘婿も孫も東電で働いているという。こうなると完全にただの身内である。「私は許します」じゃねーだろ、と、心の狭めな私としては突っ込みたい気分である。 「これは天災だからねえ、天災に勝てる者はいないよ」と妻(先にも書いたがこちらも元東電関係者)も語っているという。この記事の怖いところはこの夫婦を「心の広いおじいちゃんおばあちゃん」として美談に纏め上げようとしている気配を感じる所だ。Twitterでも「国士!40代から70代はクソだが80代の日本人はやはり違う」なる感想がRTに乗せられていた。 違うだろうと言いたい。別に東電関係者を吊し上げて糾弾しようとは言わない。東電関係者を親に持つ子供をみんなでシカトして懲らしめようなんてツイートしているキチガイもいるが論外である。しかしやはり東電サイドの人間が口に出すに相応しい台詞だとは思えない。夫は他人事のように語り、妻は責任転嫁で思考停止。厳しい言い方をすればそう思えてしまう。「許します」じゃないだろう。そこで働いていたのだから。 だがこの他人事な老人の言葉こそが本音であり真実なのだろう。人間は大きな力に流されて思考を閉じ、楽な方に行ってしまう生命体である。私も分厚い女肉に囲まれてゆったりするとそれ以上深く考える事をやめてしまう性質を持っている。 実の両親を密告してシベリア送りにした少女が何十年も経って「誰も悪くなかった。私はソ連を許します」なんて口にしたら「お前が言うか」と激しく叱責されるだろう。「誰も悪くないのよ」とおばあさんが言えば周囲の人間も敢えて反発はしにくいだろう。だがこの爺さん婆さんの事なかれ的感覚はいかにも日本人的だ。悪い意味で。 敢えて書こう。全体主義で流されても決して理想のぽちゃさんは手に入らない。私たちはこんな自分たちだけ潤って次世代に全てのツケを回し、自分たちは寿命で逃れようなんて感覚の大人になってしまってはいけない。 散々甘い汁を吸ってきたくせに「やはり原発は許せない」なんてこの老夫婦が口にしてしまったらやはりそれはそれで「ちょっと待てお前ら」と問いかけざるを得ないだろう。要するにこの夫婦は関係者なのだから、許すとか許さないとか口に出せる立場ではないという話だ。それを口にしてしまえるというのは、当事者意識が欠落しているからと言うしかない。被災者に向かってこんな冷たい事を言うのも何だが。 君は大好きなぽちゃさんを手に入れたいはずだ。妻を娶り、十数年後、どうして彼女を選んだ理由を聞かれた時に「お見合いで何となく決めた」と答えられようか。見合いが悪いわけではない。見合いは出会いのきっかけに過ぎない。だがその出会いが流れでズルズル「なんとなく」続いたものであるとしたら、それは運命ではあったとしてもちっともロマンチックじゃない。そこには恋の震えがあったはずだ。 双葉郡の老夫婦は東電に食わせて貰ったからと遠慮して東電を擁護しているのだろうし、それが間違ったものの考え方であるとは思わないが、「許します」という言葉に責任逃れの他人事的感覚が滲み出ていて不快な印象を感じる。 好きなぽちゃさんが出来て何年か経った時何故一緒にいるのか聞かれて、出会った時の魂の震えもなく、ただ「なんとなく」今も一緒にいるというのであれば、それはあまりにも悲しい話だ。 正々堂々と好きだから一緒にいると胸を張って言葉に出来れば何と幸せな事か。 間違っていてもいい。他人事の如く誤魔化すような答えしか返せない未来を打ち砕くために、今という時を精一杯恋に注ぎ込むがいいと思う。
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