武田邦彦を信じない
中部大学の武田邦彦といえばかつては根拠のない持論を振りかざし恣意的なデータの誤謬と改竄で悪名を馳せたトンデモ学者の代表のような人物だった。ダイオキシンは無害で地球温暖化説は嘘だと断言した男である。しかし学会であっさりと論破され後には小さな遺恨が残った。
しかし今や武田邦彦はヒーローである。東京電力福島第一原発事故で国、或いは東電お抱えの御用学者と揶揄される原子力関係科学者の地位が失墜し信頼を失う中、権力に汲みしない学者として、原発に警告を発する人間として、たくさんの信頼を集める存在になっているのだ。 ただし、嘘デタラメのデマを撒き散らす属性のまま。
要するに「相手」が勝手に自滅して、相対的に地位が上がっているだけなわけなのだ。これはかわせゆなや七尾みつみといった新鋭ライバルが現れ心奪われながらも勝手に引退することにより青木りんちゃんに戻ってきてしまう私たちの心理に似ている。 武田提言は実のところ今までと何ら変わりなくデータの適切な提示無く思い付きを発言するレベルを脱していない。しかし放射能の危険性を語り、楽観視をしてはいけないと語る姿勢の学者は他にはなく、人当たりの良さ(適度な俗性)もあってテレビやネットで人気を博している。根拠の提示がないから(あってもいい加減だ)普通に考えて信頼に値しない人間である事には間違いないはずなのだが、「御用学者は信頼出来ない。だから私は武田先生を信用する」と考えてしまう人々は数多い。 Aが信用出来ないからBを信用するというのは論理の飛躍である。そういう人たちはどちらも信用出来ないと言う考えには至らない。例えば自民党と民主党は対立しているがどっちが良いと言うよりどっちもだめである。ただ人間、自分の言って欲しい事を言ってくれる存在(人)を疑いたくはない。武田邦彦は状況を読む力に長けている。 程度の差こそあれ、弱者は誰かにすがり、また、頼る事で心の安定を図る。だから武田邦彦が明らかに間違った意見を口にしていても「全体的に正しい」「武田先生のウソは良いウソ」といった思考に閉じこもる。御用学者の一切ウソは許さないにも関わらず。 武田邦彦の厄介な所は所謂一般的なトンデモ系学者と違って、正しい事、本当の事を会話に取り混ぜる部分である。そして論理思考のプロセスは平坦でわかりやすく、大きなぶれがない。問題は前提やデータが恣意的で自らの用意した結論に都合の良いものを取り上げて、知識の欠落も反芻する事なく持論を構成してしまう所だ。だから武田邦彦の発言は結果的に真実と嘘がでたらめに折り重なって示される事となる。 ドイツの気象庁が出した予想図を意図的にかたまたまか読み違え、川崎市のゴミ廃棄物の件に横から口を挟み騒動を誘発し、「私はそんな事は言ってないんですけどねえ」と白を切る。突然福島原発は安定期に入ったと語り出し、ほかの学者と異なる数値の出し方をして苦言を発する。布拭きを推奨したり、他の学者が言ってくれない放射能対処法をレクチャーし、庶民側に立ったものの見方を出来る人間としてアピールする。ただし、科学的根拠は殆どの場合不明のままだ。 武田を信用する者は全力で武田を守りにかかる。何故か武田の嘘を追及する人間は武田に嫉妬する人間だと設定されていたりする。 これは小さなカルトだ。誰かに頼り、自発的思考を放棄した人々は教祖の言葉を肯定の意思のみで捉え、擁護し、信頼を寄せる。敵を排除する。これを信者と言う。 なお、太い肉襦袢(じゅばん)を纏う愛らしい女体を信仰する我々はただ単に真実を崇めているだけなので、信者と言うよりは「ジャスティス」と名乗る方が相応しいだろう。これからも限りなく真実の使者として切磋琢磨していきたいものだ。 さて武田邦彦は学会で否定され嘲笑された暗い過去受けた言葉を忘れていない。 「核爆発と再臨界の区別すらロクにわかっていない素人」「核分裂の連鎖反応から核爆発しか発想が出来ない」「原発利権にも混ぜてもらえなかった畑違いの自称原子力専門家」 自分を馬鹿にして来た学者たちは失墜し、または大衆をとらえる話術も有してない。これはチャンスだ。本当は武田自身原発推進派だったのだが、指摘されない限りそれは抑えて口にしない。今自分を支持してくれている層がどの種の人間か、わかっているからだ。指摘された時用意されている言葉は「私は反対なんて一度も口にしていない」「安全な原発ならオーケーですよ」なのだろう。 「過去は取り消せない」 「信用出来る学者と信用出来ない学者がいる」 「神になったつもりの専門家」 実はこれら武田発言は、自分自身が今まで言われてきた事であり、または今まさに言われている言葉だ。攻撃される前に先制する。小さな世界を守るための準備も覚悟も出来ているのだろう。 小さな遺恨がうねりとなって、復讐がはじまっている。そんなものに第三者がわざわざ乗せられる必要はない。 誰を信じるのも人の勝手だが、自分が情報リテラシーに秀でている側の人間だという選民的思考は捨てた方が良いだろう。 カルトが厄介なのは教祖様よりむしろ信者だ。自分だけは大丈夫だと思う心、弱い人間の思い込みほど危ない思想はない。そして人を信じる心は尊いものだからこそ譲らない。譲れない。 人々の不安に乗じ、意識的にか、無意識にか、自分を高めようと画策する人間がいる。私たちはもう少し、強い意志を持たなければ滑稽だ。 真実はぽちゃさんだけで結構だ。 間違えてはならない。
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