嫌なニュース多いねあーやだやだ
全く人間は糞弱い生物だ。内田裕也の狼藉といい上原美優の訃報といい心当たりがあるだけに見ていてうんざりする。
まだ内田裕也は笑えるが、基本的には弱い人間の暴走だ。明るい出来事ではない。世の中が暗く傾いた中でネガティブに走る人間のニュースは私たちを更に暗くさせるに充分だ。救いがない。
瘴気の存在は十九世紀に否定されたが、「悪い空気」というものは確かに存在する。私が体重90キロ、バスト120センチ超級の女体に埋め尽くされた女学校に教師として赴任したとしたらどうなるか。きっと過ちを犯すはずだ。歴史は過ちではなく真実に委ねられるものだが、もし自分の担任となったクラスの生徒全員が若々ぽちゃさんだったら理性はどこへ行ってしまうだろう。それが「瘴気」だ。人間は場の空気に購えぬ存在である。 人は基本的に愚か者なので、自分の意志そのものよりも周囲の期待や指向性を優先してしまう。周りのみんながマックに行きたいと訴えているのに自分だけかっぱ寿司に生きたいと駄々を捏ねれば恐らく君はつまはじきにされてしまうだろう。例えかっぱ寿司に行きたいというその思いが純粋なものであったとしても、君は仲間内で空気が読めない奴と陰口を叩かれる運勢からは逃れられない。これが空気の恐ろしいところだ。ナチスも、学生運動もそうだった。ヒッピーが格好いいとされたのは格好の良いヒッピーがムーブメントを巻き起こし、周囲の人間がそれに乗っかったからだ。周囲の人間も格好良かったからヒッピーが格好良く感じられたわけではない。ここがミソだ。ヒッピーは格好いいという時代の空気に騙されたのだ。あんな神伸ばして髭伸ばしてクスリ決めてる頭の悪い団塊の若者中心の集合体なんてそんなもん冷静に考えて格好いいわけがないではないか、 だが自らの判断で真実を考察する事は非常に難しい。人は間違える存在だ。 体重は重ければ重い程、肉塊は付いていればいる程、女性はかわいくなる。ガリでは意味がないのだ。女体はその豊満さこそが女性である証であり存在意義である。 私の中に真実はある。しかしそれが世界の皆に認められぬ限り私の正義は私のエゴとなってしまう。相対論だ。 この下らない世界にどれだけぽっちゃりした女の子を愛する男がいるか。受け止めることなく生きるぽちゃさんがいたらどれ程の悲劇であろう。 卒強く、吏弱きを弛という。世界には大いなる大儀が必要だ。 私の真実はここにある。世界中のぽちゃさんが救われる魂の救済を私は信じたい。 今日のご託はこのくらいだ。腹減った。
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