肥後もっこすという生き物
熊本出身の柔道界の重鎮、吉村和郎氏が「肥後もっこすであれ」と訴えていた。この人は本当に凄い指導者で、コーチ、監督としてのみならず、最近では谷亮子に引退勧告した事でも有名だ。
肥後もっこすとは簡単に言うと「頑固者」という意味である。競技者は頑固者であるべきだ、という主張なわけだ。 それはいいが肥後もっこすというのは「頑固」というより、どっちかというと、「混迷」「頑迷」なるニュアンスの濃い言葉な気がして、正直肯定的な意味で使われると違和感を感じる。
しかしWikipediaを読むと「正義感があり純情で頑固」といった具合に良いことばかり書かれている。だがどうだろう、都合のいい解釈だなあと言うのが正直な感想だ。血糖値が300を越えているのに「低血糖で倒れるよりはいいじゃない」と言い訳して医者にいかないぽちゃさんがいたら大変ではないか。あまり都合の良すぎる解釈というのも考え物である。 勿論言葉や表現は生き物であり、肥後もっこすとは元来肯定的な意味を含む言葉なのかもしれないし、私の解釈が間違っているだけかも知れない。「土佐のいごっそう」も似たような言葉だと思うが、細かいところはどういう意味だろう。 土佐の田舎者の事情は知らないが、肥後もっこすの場合は「普段は頑固で困った奴だがいざという時には頼りになる」なんて具合に捉えている解釈が主流なようだ。私は「普段は頑固で困った奴だがいざという時には頼りになるように見えて実はやっぱりあんまり頼りにならない」が実状に近いと思う。また実際「もっこす」自体もそんな言葉だと思う。 吉村氏がそうだとは言わないが、よく熊本県人は自嘲気味に「私は肥後もっこすですから」と口にする。が、自嘲、謙遜に見えて実は「でもいざという時は私はやります奴ですよ」とアピールしている姿は非常にうざい。 「ただ偏屈で頑固な上にいざとなったら腰砕け」 これでは夢も希望もない単なる悪口だが、現実を見よと我がふるさと熊本県民には心見据えて現実を直視して欲しい。 「私はぽっちゃりしているからオッパイも大きくてよくジロジロ見られるの」と思い込みたいぽちゃさんも多数おられようが、ぽちゃさんの割にはそんなに大きくもない乳に過ぎないケースも多々存在する。だが良いではないか、乳がイマイチでも私はぽちゃさんを愛している。現実を受け入れて、それなりの幸せを目指せばそれで良いのだ。 受け入れないと何度も何度も今度こそ抑えられるはずだと山本省吾を先発させる尾花監督のようになってしまう。ダイエー時代寺原を育てられず、横浜でも見切った尾花だがオリックスでエース級の大活躍だ。悔しいのはわかる。寺原と交換で連れてきた山本が戦力にならない現実が許せないのだろう。だが諦めなければならない。ようやく再来日した実力未知数のリーチや、三浦、清水といったロートルに頼らなければならない事実に刮目せねばなるまい。 小国郷の星、北里柴三郎から水前寺清子に至るまで「我こそが肥後もっこすなり」と自己申告しているが、私は本当に困った奴でしてねえ、という意味で謙遜している限りなら構わないが「オレは結構いい奴なんだよ」と密かに自己主張しているつもりならばやめた方がいい。自分たちをよく見せたいが為に飾り立てるのは実に悪い意味で田舎者の特徴だ。美しくない。 ありのままの自分を受け入れ、過ごせばいい。 混迷なる世界の人々に、吉村氏に、そして多くのぽちゃさんたちに訴えたく考える次第である。
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