AO入試の戦士たち
読売新聞を読んでいたらAO入試で大学に入った学生が就職戦線で大苦戦しているという記事が目に留まった。
ちょっと名のある企業で面接を受けると「君は一般入試かね、それともAO入試かね?」といちいち聞いて来られるのだという。
ただでさえ就職氷河期なのに、AO入学者というだけで就職時のハードルが高くなるとかご愁傷様としか言い様がない。 しかし仕方ない気もする。 頭の悪い学歴主義者の2ちゃんねらーじゃあるまいしあまり偏差値の話はしたくないのだが、多浪生かつようやく地方三流大学に滑り込めた程度の私だって三流とはいっても偏差値50いくつ以上を要求された。大学の数は今より少ないのに受験者数はとんでもなく多かったからだ。第二次ベビーブーム世代は辛いのである。それが今では同じ学校なのに40台前半だ。そんな大学に受験勉強を経験せずにAOで入ってきた学生がどれだけ社会で戦力になるのかというと、やっぱり色々と考えさせられるものがある。ぽちゃさんだって一ヶ月ぐらいで急に体重を二倍に増やした子よりも、五年、十年かけてじっくりと増量を重ねてきた子の方が健康的だ。AOなんて所詮は邪道なのだ。ファイヤーなのじゃ。 もっともこれは六大クラスの一流大学を出ても事情は同じらしい。それどころかAOのみならず推薦入学でこれらの学校に入った学生に対しても企業の目は厳しいのだそうだ。高級官僚を目指すならともかく、上智や青山学院を卒業して普通の上場企業を受けようとしているだけなのにそんな段階で足切りに遭ってしまうだなんて大層な話である。 しかし企業側にも言い分はある。現実問題として、AO入試者で入社してきた人材は、見事なまでに使えないのだという。そしてそれは程度の差こそあれ結局推薦入学組も同様だという話である。 全入時代を迎えて、本来の目的から外れ、大学が学生数(つまりは収入源)確保のためだけに推薦枠のみならずAO入試枠を拡大し続けていった結果がこれだ。新型のゲルググやドムもパイロットが学徒動員兵ばっかりで戦果に乏しかった。大学に入ったからといって大学生のレベルには達しないのである。 AO入試そのものの意義が悪いとは思わない。しかしもっと難しくてもよいのではなかろうか。例えば一教科は満点だが他の一教科では逆に一点足りとも取れないような一転突破型タイプだとか、人命救助で十人以上の命を救った経験があるとか、数学オリンピック金メダリストとか、そこまでいかなくても本当に「秀でた一芸」の持ち主といえる人材を合格させることに特化した方が良いと思う。 ふくよかなLカップを持つ超絶爆乳ぽちゃ高生なんかも一芸といえるだろう。あなたがあなたの母校を訪れた時、乳の大き過ぎる女の子がキャンパスを闊歩していたら、甘酸っぱくて切ない青春が昨日の出来事のように思い出されるはずだ。 楽をして入学するための手段としてAO入試試験を利用したとしたら、そのツケはいずれ支払わされねばならない。君たちの先輩方が社会で失格の烙印を押されてくれたお蔭で、逆に、君たちは分相応な高望みを打ち砕かれたのだ。これは不幸ではなく僥倖であると考えるべきである。それが悔しかったら本当の実力を手に入れるための努力を重ねれば良い。 AO入試は曲がり角にある。しかし君たちの未来は、果てしなく続いている。
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