境界線上
インターネットをはじめて1年経ったかどうかという頃、ネット上からタイガーマスクの画像を拾って加工し年賀状に使った記憶がある。来年の干支も虎だから、あれから12年経ったわけだ。干支一回り以上のお付き合いなわけである。
井上大輔は「人は一人では生きられない」と歌ったが、モニタ越しでも遠くの人と一緒にいられるのだ、一人ではないのだと錯覚させてしまうのがインターネットの凄いところである。凄い、とは「グレート」と畏怖している意味もあるし、「怖い」「危ない」という意味もある。ネットでしか大声を出せない人間を育成しているところなどは危険な部分と言える。唐突に絶食ダイエットに走り出すぽちゃさんぐらい危険だ。
もっとも私はネットの未来に楽観的だ。ネットがあろうが無かろうが問題児は問題児だし、出来る人は出来る。ならばネットの登場以降人々のコミュニケーション手段が増えたと考えれば上々だ。 しかし注意しなければならないのは、あくまでネットは仮想現実であり現実ではないという当たり前の認識を常に持っておかないと、現実と仮想の境界が曖昧になってそこから一歩も進めぬ事態に陥ってしまうと言う事だろう。現実は儚くて厳しい。 さてここまでの私の文章を読んで「今一つ意味がわからない」と思う人は正常である。ネットを手段として割切って利用している人々は、健全な利用者としてそのままのネットとの関係を維持すれば良い。問題があるとすれば「現実と仮想の境界が曖昧になって」の部分に心当たりがある人だ。私もそうだが意志の弱い人間が一旦ネットの魅力に取り込まれてしまうと大変危険である。パチンコジャンキーみたいなもので、非生産的なネット人生に編み込まれてしまう。パチンコと違って「俺はネットに触れる事により、今、最先端の世界にいる」みたいな勘違いも植え込まれがちだ。ネット番長は実務能力がないのに報告要領だけが上手で自分を有能だと思い込んでいる無能サラリーマンの如く脆い。 はてさてネットは簡単に言えば通信ツールであり手段である。 「通信」ですらない。ツールだ。道具なのだ。 拳銃を構えて話し合いをしてもそれは対話とは呼べない。強制に過ぎない。拳銃は他者を屈服させる目的を持つ手段であり道具だが、ネットはそこまでの破壊力はない。ただの情報・通信の道具だからだ。 ところがネットを手にした途端、まるで拳銃を持った西部劇保安官のように気が大きくなり、更に「対話しているつもり」の気分に浸ってしまう愚かな人間が何と多い事か。 ネットは透明な道具であって、そして現実空間ではない。私も深く考えなければならない。現実と仮想が入り交じる経験を持つ人間として。 私はネットを主に愛しく丸いぽちゃさんへ愛を綴る発信ツールとして利用している。あくまでも綴るまでであり、その後は現実の自分自身に任せている。愛らしい肉塊をGETしてウハウハ。これが究極の目標だ。ネットでぽちゃさんに触れるだけで満足してはいられないのだ。 人よ間違えるなである。道具には道具である以上の価値はない。 「いや僕はプラスドライバーの収集マニアで工作に特に興味はないのですが金属と十字の織り成す美に心奪われているのです」 「手紙は出しませんが世界中の切手を集めています。リヒテンシュタインに謝れ」 「幼女に手は出しませんが幼女モノのエロ漫画は好きです。特に風船クラブ先生の作品が好きです」 ああはいはい。まあそう言う人たちも大勢おられよう。しかし道具を道具以上の存在と勘違いして現実を見失ってはいけない、と、私は敢えて主張したい。 コミュニケーションは自らの心の中にある。道具はその領分をわきまえ、必要以上に対人関係に影を及ばす事はない。それを出来ると誤解したり勘違いしてしまう在り方ではいけない。釘を持って剣を手にしていると思い込んでしまう愚かな戦士では困るのだ。釘は釘である。 さて寒くなって駅前に屯(たむろ)する酒飲み老人が増えてきた。 彼らはネットなんか持っていないから自ら他者と触れ合うために家を出るのだ。家の中にいてネット経由で他人触れ合ったつもりになっている若者よりも健康的に見えるが、彼らの一部は悪酔いし通行人にくだを巻き、お金は持っていないから駅前のスーパーに飛び込みワンカップ大関をちょろまかしてくる。駄目な奴はどんな環境にあっても駄目だと言う事だ。ネットを持っているか持っていないかの人間に差異はない。あるのはまっとうな人とそうでない人だ。 ネットを利用する私たちは、せめてネットを利用出来る私たちであるべきだ。 私もネットの海からいやらしい乳を持つ大型女体画像をサルベージしてきて喜んでいるだけの猿では意味がない。 あくまで愛を具現化させるまでのツールとして有効に使って行きたい。 ネットと付き合って12年、私は真実に到達した。 道具に溺れずこれからもぽちゃさんへのラブレターを書き連ね続けたく思う。
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