俺とお前の十二月八日
十二月八日は所謂太平洋戦争の開戦日である。七十年前のこの日、日本は真珠湾攻撃を敢行し、アメリカ、イギリスとの戦闘状態に突入した。
日本が戦ってくれたお陰でアジアの植民地時代が終わりを告げ、今日の独立があると言ってくれたのはタイ国王だったが、一方で宗主国であった日本に対する憎しみに囚われたままの国もある。敗戦国には弁解の機会が与えられ難いという悲哀もある。
しかし欧米の搾取に苦しむ人民のために立ち上がった国が他になかった事も事実だ。この義憤は若きエリートたち共通の想いとなり、屈強な大日本帝国軍を生み出す原動力となった。亜細亜解放の理念の下に、日本は今のところ最後の世界大戦である太平洋戦争に突入した。 だが残念な事に急いた理想、理念は暴走に繋がるものである。そして責任を問わぬ全体主義指向と言う東亜独特の思考の罠に嵌った日本国は、戦局の変化と大砲主義の終焉に伴う戦略の変貌に対応出来ず、ズルズルと敗走を重ね結局は無残な敗退を遂げた。 時局の変化を読めぬ混迷さと対応力の鈍さ、いざとなると全体の責任を取る人間が一切現れず個人の自害(戦闘指揮官の切腹など)などでその場その場の責任を回避する悪しき意味での潔さ、他者を巻き込む往生の悪さなど、現代日本でも色濃く見受けられる全体主義的欠陥が現実主義を取るアメリカに完敗した事は今思えば当然の帰結であり、現実を見据えず無茶な計画を立て痛い目に遭うまで徒党を組んで赤信号を走り抜ける愚かさが残ったものの全てだ。 哀れなるは理想に燃え死んでいった魂の数々だ。 しかし現実は現実だ。日本は世界を知ろうともせず世界に対抗し、それまでの勝ち戦にのぼせあげ、重大な分岐点で悉く選択を誤った。 現実に目を背ける気質は変わらず、今でも太平洋戦争を自由に語る雰囲気はない。だから何も考えず当時の滅んだ理念をお題目のように唱え続ける右向きの方々と、平和の一言で思考を停止する非現実的な左向きの方々が、大した議論もなく大きな声を張り上げ幅を利かせ続けている。 福島瑞穂は最初から白旗を揚げて負ければ戦争は起きないと言った。彼女は最初に襲われ殺されでもしなければ現実に目覚めないのだろう。チベットの惨状は他人事だから見えないのだろう。最初から主張と敵を定めてそこから一歩も踏み出せない。右も左も馬鹿は同じだ。 我々の本質回避能力は大したものだ。みんなが知っている実はどうでもいいような事を必要以上にタブー視して隠し、戦争や原発事故のような重篤な事態すら一番大切な問題を誤魔化して枝葉の修正に血眼をあげ、働いている振りをする。いざという時に強健を発動するため細やかな法則を張り巡らせ、それを盾に議論をかわす。天皇制などその最たるものだ。これほど重要な位置にある存在ながら、天皇について正面から語る事すらはばかれる世の中だ。議論が出来ないから結論有りきの極論者が自分たちなりの結論を騒ぎ立てていて、ますます普通の人々は口を閉ざす。自由なる個人の意志を発信し、受け止める土壌がないから最後はこうなる。この点において根っこの部分で日本は中国や朝鮮によく似ている。やはり近いだけの事はあるのだ。 それでも、どの国もお上や企業のお偉方さんが権力志向で蒙昧である事は変わりなく、日本が独自の文化を築き上げてこられた要因として、庶民レベルにおいての基礎的教育制度の充実が寺子屋の昔から存在していた事が挙げられる。近世における識字率の高さは驚異的と言えるレベルであり、数すらまともに数えられない市民が町中至る場所にいた「普通の」国々とはその意味では比較にならない。 格差がもたらす歪(ひず)みを統治するものは何時の世も独裁者でなければ国の形を維持出来ず、最後には自ら国を滅ぼす。或いは別の独裁者に討たれるしかない。構造の問題は変わらぬまま終わる。勿論大なり小なり富める層が大多数の一般人から搾取する事で成り立っているという基本は変わらない。 では対抗の手段は何か。 それこそが「教育」にあるのではないか。この場合「教育」は「情報」に置き換えても良い。もっと言えば「知識」、そしてそれに付随する「知恵」である。これこそが体制に対する弱々しくも、実際の所一番有効なカウンターアタックに成り得る。問題は、教育は国家の都合によって恣意的に改変され利用されると言う事実だ。 よって本当に重要な普遍的(俯瞰的)情報を選別し得る手段を私たちは手放してはならない。普遍的情報を一般市民が幅広く有する事により情報が種となり実となって文化が形成される。文化を持たぬ大衆は必ず体制に愚弄される。文化を持っていれば愚弄から逃れる事は出来るのか?残念ながらそれも違う。お上は権力を持っているからこそお上なのだ。だが精神の呪縛から光を見い出す事は可能だ。 知識だけでは利用され、知恵だけでは頭を抑えつけられる。文化大革命を見ればわかるように、人を愚衆の枠に閉じこめるには教育と識者を奪えば充分だ、どのような状況に陥っても、これを奪われる事だけは避けねばならない。 ぽちゃさんの素敵さを世に伝え広めるためには草の根レベルでの啓蒙が必要だと言う事だ。それ即ち理解である。私たちは、もっと真面目にぽちゃさんの全てを知る努力に努めなければならない。
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