田中慎弥を思う
周回遅れの話題だが、一月の芥川賞受賞記者会見で一躍時の人となった田中慎弥作「共喰い」を買ってみようかなと本屋に寄ってみたが、やめた。田中慎弥個人には関心が湧いてもその作品には特に興味が湧かないわけである。考えてみれば私には小説を読む習慣がない。文学にも興味がない。ぽちゃさんを愛するようには行かないのだ。
その代わりNHK朝ドラカーネーションのノベライズ下巻と、ついでに数年前の話題作、同じく朝ドラになった「ゲゲゲの女房」の文庫本を買ってきた次第である。ゲゲゲの女房は実業之日本社の本である。「静かなるドン」を看板とする出版社だ。静かなるドンとゲゲゲの女房が二枚看板とか、考えてみれば凄い出版社だ。とまあそれは良いとして、気になるのは田中慎弥・個人、その人である。
授賞式における態度はパフォーマンスとして捉えればどうという事はないが、それは問題ではない。 氏の経歴は正真正銘のニートである。これだ。昭和四十七年の生まれでデビューが平成十七年だから、三十年以上ニートという生き方を貫いてきたわけだ。そして小説を書く事にだけに情熱を傾け、遂には芥川賞まで到達して見せた。 私は今こうして一応普通に働いて生活しているわけだが、根っ子の部分はニートである。詳しい説明は面倒臭いので省くが、間違いない。私にはニートの気持ちが良くわかる。 「お前にわかってたまるか」とニートの方々に思われようがわかる。ただ一つ田中氏と異なるのは、私にはニートを貫く勇気も、信じるものに懸ける情熱も勇気もなかった事だ。多少小器用だったので、どうにか大学に行き、普通に就職し、上手くは行かないが、犯罪に手も染めず、充分ではないが生きていけるだけの収入も手に入れて、大好きなぽちゃさんと全く縁がないわけでもない人生を送れている。 多くの人々がそうしているように迎合と妥協の積み重ねが今の私の生活の基盤となっている。それは悲しむべき事では決してないはずなのだが、自分が陥る事の無かった世界だとしていた空間で、自分を曲げず、矜恃を保ち、十数年の潜伏の果てに「このままで自分は生きて行く」と言い切れるだけの世界観を抱くまでに至った田中慎弥という生物に対し、私は、嫉妬の念を禁じ得ない。 私は心底肥えた女体が大好きで、ぽちゃさんを愛していると断言しきれるが、もしこれまでの人生で痩せた骨娘に「是非とも私を抱いて下さい」と迫られたとしたら一発決めていたに違いない。間違いない。幸か不幸かもてない男だったのでそんな風に迫られた経験はないが、吹けば飛ぶような軽い信念の持ち主に過ぎなかったのではなかろうか。田中慎弥は貫いた。それが氏の強さに拠るものか、或いは弱さに拠るものかは他人である私にはわからないが、ともかく貫く事が出来たのだろう。私は己が信念を心の底から自信を持って貫けると宣言出来るだろうか。 芥川龍之介は自分に負けて死を選んだのでその理由なり情状がどうあれ私以下の人間だと断定出来るが、田中慎弥は生きている。私はこの人生において氏に対し生じたコンプレックスを如何にして返していくか、課題としたい。 私は周囲の目を気にしていないフリをしながらも、気になって仕方がなく生きている人間である。この屈辱、忘れはしない。「一体お前は何を主張しているんだ」と言うツッコミは無視する事とする。私の中で、何かが目を覚ました。
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